20240618 声
奈井江町のニュースについてです。奈井江町が猟友会に払う熊退治の料金が安すぎることで猟友会が契約を拒否した、そんな内容でした。記事から推測するに猟友会が求める金額は相手の足元をみた法外な値段ではないらしく、奈井江町側の対応の改善が求められるのかなと理解しています。とは言え、周辺ではクマの出没が確認されていて待ったなしの対応が求められているわけであり、私は町長に弾の入っていない猟銃を持たせて猟友会の熊退治に同行してもらって猟友会の人たちがもらうお金を同じようにもらってもらうのがいいと思います。同じ経験をしてもらって、もしも仮に町長が今の金額を据え置くようなら猟友会の人もあきらめてもらうしかないと思っています(多分それはないと思うのですが)。これって完全痛み分けですよね。分かると分けるの語源は同じという説があるそうです(諸説あり)。相手と分かりあうとは感情なり体験を分けること・共有することなのだと思います。痛みしか分けあうことが出来ないとしたら人として残念だと思います。私は究極の痛み分けは戦争だと思っています。
それと前後して、つばさの党の記事がありました。最初から対立候補の邪魔を目的に立候補して、邪魔している様子を動画配信して逮捕されたそうです。記事はつばさの党についてではなく、安倍晋三にヤジをして逮捕された人が同列にしないでと主張する記事でした。つばさの党について、逮捕は妥当だと思うのですが、それと同時に仮にも政治活動を制限するということ自体は危険だと思うのです。記事を読みながら同列にしないでという主張は理解できるのですが、同列かどうかについてどこに線を引くのか難しいと思いました。
これらの話について共通することは「声」だと思います。「声」を大事にしないとダメだと思います。「声」を拾うのは大切なことだと思うし、効率が悪いからと言って「声」を捨てるのは暴力だと思います。大きな白い紙にたくさんの言葉が小さく書いてあって、それを上から真黒く塗りつぶす様子を想像したら怖すぎる。それも戦争だと思います。
私は、日常の業務の中で患者さんのお話をよく聞くようにしています。単純にお話を聞くことが楽しいからというのもあるのですが、「声」を大事にしたいからです。話すことは体にとって大事なことです。私の治療院は話すことから始まります。