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恐れることを、恐れるな。進め。

先日、ヤフーニュースを見ててこりゃないなと思ったので、そのことを書きます。
ある市長とその議会とのやり取りについて、あるコラムニストが書いた記事です。
要約すると、その市長が会合で「挨拶とスカートは短い方がいい」と発言したら批判を受けて謝罪。そのあと、議会が辞職勧告決議案を賛成多数で可決(法的拘束力は無いとのこと)。市長は「市民の信頼を失ったとすれば、信頼を回復するため、全力で市政運営の責務をはたしていきたい。」と言ったそうです。
コラムニストは「挨拶と~」には同調しないけれど、そこまで批判することに警告を促していました。単純に「お前らバカじゃない?」じゃなく、「そういうのは止めた方がいい」、という内容でした。私も同意見です。特に辞職勧告決議案が可決されたことを重視していて、曰く

「このフレーズやこれを使った人を非難する行為には、見識も思考力も必要ありません。「セクハラ」とか「女性蔑視」といったわかりやすくて反論しづらい正義の論理を当てはめて、「嫌な思いをする女性がいるかもしれない」と妄想の被害者を仕立て上げれば、意識が高くて良識にあふれた自分が“悪”を成敗する美しい図式の出来上がりです。」
「さらに、叩きたがり屋さんが増えれば増えるほど、人々はお互いに疑心暗鬼になり、揚げ足を取られることを恐れて、ビクビクした気持ちで暮らさざるを得ません。戦時中に「非国民」「お国のため」を絶対的な基準にして、考えることを放棄しつつ相互監視が強まったのと同じです。あら探しに精を出していた国防婦人会のメンバーは、きっと充実感や気持ちよさに包まれていたことでしょう。現代の叩きたがり屋さんのように。」

私はこの場合、グレーをグレーのまま置いておく方がいいと思います。グレーを白じゃないという理由で黒と同様にするのは確かに怖いと感じます。この人の文章の中で特に「わかりやすくて反論しづらい正義の論理を当てはめて」「妄想の被害者を仕立て上げれば」「“悪”を成敗する美しい図式の出来上がりです。」という文章がシックリきました。私は自分の頭で考えることを放棄できないです。

本文はこちら

https://news.yahoo.co.jp/articles/ef018a51a1f68048743db8c5503be436ea1ec385?page=1

 口は災いの元、になることが実に多い昨今、コラムニストの石原壮一郎氏が考察
 
「正しいこと」が好きな人たちは、何がやりたいのでしょうか。「正しいこと」を追求すれば、「みんなが生きやすい正しい世の中」になると本気で思っているのでしょうか。いや、さすがにそこまでマヌケではないですよね。

 何かを叩く気持ちよさを求めているのだとしたら、まだ理解できます。しかし、そういう人たちの目先の快感と引き換えに、世の中がどんどん息苦しく、ダメな方向に運ばれてしまうのは看過できません。

 蟷螂(とうろう)の斧やごまめの歯ぎしりの類かもしれませんが、全力で異を唱えさせてください。そう、昨今話題の「挨拶とスカートは短いほうがいい」についてです。面白いかどうかは別として、この程度の軽口が、なぜ寄ってたかって責められなければならないのか。はたして市長が辞職勧告決議案を出されるようなことなのか。

「いやいや、令和の今はダメでしょ」「セクハラに当たるのでは」と、世の中の風潮を自動的に内面化してジャッジするのではなく、自分の頭で考えてみていただきたい。「挨拶とスカートは短いほうがいい」という言葉のどこに、どんな問題があるのか。世の中の風潮こそが自分の意見だと思い込んでいる人には、無理難題かもしれませんけど。

 一連の「挨拶とスカートは短いほうがいい騒動」について、ざっと振り返っておきます。福岡県中間市の福田健次市長が、10月に北九州市で開かれた会合で「挨拶とスカートは短いほうがいい」と発言し、批判を受けて謝罪する展開になりました。

 かつて、お笑いコンビの博多華丸・大吉がこのフレーズをギャグとして使っていたことから、ネットの一部で「華丸・大吉のパクリだ」という声が上がります。もちろん、このフレーズは大昔からあり、スピーチのつかみの定番ということを踏まえて彼らがギャグにしたもので、パクったパクられたという話ではありません。

そんな背景もあって、福田市長が謝罪した翌月の11月4日、博多華丸さんはレギュラー出演しているラジオ番組の中で、受け止められ方は「言う人、言う場面、状況とかにもよる」と前置きしつつ、「そんぐらい、いいっちゃないと?と、俺は思うけどね」と話しました。深い見識が伺える素晴らしいコメントです。

 騒動はこれで終わりません。発言からしばらくたった12月14日、中間市議会は福田市長に対する辞職勧告決議案を賛成多数で可決しました。決議に法的拘束力はなく、福田市長は「市民の信頼を失ったとすれば、信頼を回復するため、全力で市政運営の責務を果たしていきたい」と続投する考えを表明しています。

 福田市長が議会に嫌われているのか、地元の評判はどうなのか、そもそも福田市長がどういう方なのかは、まったく存じ上げません。ですが、そのフレーズが原因で「辞職勧告決議」を出されてしまうというのは、もはや笑い話です。議会で可決されたということは、「さすがにバカバカしいのでは」と思わない議員のほうが多かったわけですね。

 このフレーズやこれを使った人を非難する行為には、見識も思考力も必要ありません。「セクハラ」とか「女性蔑視」といったわかりやすくて反論しづらい正義の論理を当てはめて、「嫌な思いをする女性がいるかもしれない」と妄想の被害者を仕立て上げれば、意識が高くて良識にあふれた自分が“悪”を成敗する美しい図式の出来上がりです。

 しかし、本当に「セクハラ」などの言葉で攻撃する必要がある発言でしょうか。嫌な思いをする女性がたくさんいるのでしょうか。不愉快だと眉をひそめる人がいたとしても、「そうですか。お口に合わなくて失礼しました」でいいんじゃないでしょうか。

 それよりも「挨拶と~」というフレーズを“悪”とすることの弊害を考えてみましょう。まず危惧されるのは、華丸さんが言うところの「そんぐらい、いいっちゃないと?」の精神が失われていくこと。人間は誰しも不完全で、くだらなさを抱えた存在です。人のそういう部分は鼻で笑っておく心の余裕がなくなると、あるいは鼻で笑うことを禁じられてしまうと、世の中も人間関係もギスギスしたものになるでしょう。

「挨拶と~」は、たしかにくだらない冗談です。しかし、学級会的な正論を振りかざして「許さない!」といきり立つことが望ましい反応とされたら、至らなさに対する寛容な気持ちや自分とは違う感覚を適当に受け流す柔軟性は、人々の心からどんどんスポイルされていくに違いありません。それは間違いなく「生きづらい世の中」への道です。

 さらに、叩きたがり屋さんが増えれば増えるほど、人々はお互いに疑心暗鬼になり、揚げ足を取られることを恐れて、ビクビクした気持ちで暮らさざるを得ません。戦時中に「非国民」「お国のため」を絶対的な基準にして、考えることを放棄しつつ相互監視が強まったのと同じです。あら探しに精を出していた国防婦人会のメンバーは、きっと充実感や気持ちよさに包まれていたことでしょう。現代の叩きたがり屋さんのように。

 大きなお世話かもしれませんけど、叩くことに精を出している人たちも気の毒です。新たな快感を得るために、常におあつらえ向きの対象を探し続けなければなりません。鵜の目鷹の目で叩く対象を探し続ける心の中は、さぞ殺伐としているでしょう。

「挨拶と~」を叩くのはいかがなものかと思う同士のみなさん、逆風に負けずに今のスタンスを堅持しましょう。チャンスがあれば「まあまあ、いいじゃないですか」とかばってあげたいところ。このままでは「据え膳食わぬは男の恥」「悪女の深情け」「蓼食う虫も好き好き」といった味わい深い言葉も、遠からず攻撃対象にされてしまいます。「酒と女は二号まで」や「女房と畳は新しいほうがいい」は、すでにパージされました。

 まあでも、叩くことには毅然と異を唱えたいですけど、だからといって自分がスピーチするときに「挨拶と~」を使うかというと、それはまた別の話です。

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