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論文や文献の類

論文や文献が大事な理由(クリックして読んでください)

もしも「鍼灸治療を受けたことがないグループより、定期的に鍼灸治療を受けたグループの方が明らかに寿命が長かった」という内容の文献があったとしたら、鍼灸治療は効果があると言えるでしょうか?
もしも「夏の海水浴場でアイスの売り上げが多かった日は溺死する件数も多かった」という文献があったら、アイスを食べたら溺死する確率が上がると言えるでしょうか?

あくまで個人的な見解ですが、とかく鍼灸師はエビデンスという言葉が嫌いな傾向があります。それはエビデンスという言葉が鍼灸に対する批判とワンセットになっていることが多いからと推測しています。西洋医学に長年携わっていた私にとって、エビデンスを求められることは普通のことです。しかし、鍼灸師がエビデンスを求められることに反発するのも分かる気がします。それはエビデンスだけで患者が救えない現実があるからなのではないかと思います。要するに患者側がエビデンスを必要としている場合としてない場合があるからではないでしょうか。実際、コロナ対策の時はエビデンスが出るまで待つことは出来なかったと思います。
しかし、だからといってエビデンスが不要かというとそれはやっぱり違うと思います。

私が出した結論は患者さんに対峙する以上は誠心誠意である必要があるという、いたってシンプルな基本でした。

導入部の話ですが。
二つの論文については、私の勝手な作り話です。感覚的にアイスを食べても溺死のリスクは変わらないと思います。
でも、もしも一つ目の文献だけを見た時に自分は「これだけでは鍼灸が効果的だとは言い切れない。」と言えただろうか?
相関関係があっても因果関係はない。そんな簡単なことに気付けないことがこわい。
数字は嘘をつかないけれど、ウソツキは数字を使うと言います。
誰でも間違えることはあると思いますが、ウソツキになってはいけないと思うのです。
鍼灸の古典で一番古いもので聖書と同じくらいの時代に書かれています。体の中にある臓器同士が連携していると指摘していたり、目に見えない何かが体を巡っていると指摘したり、その時代にどうやってその答えに行きついたのか興味深いです。しかし現代において、その古典をそのまんまでは温故知新と言うより停滞だと思います。つつしみがないし、そもそも原理主義者であってはならない。もしもその古典を書いた人が現代に生きていたら、その観察眼で何を言うかを考える。私はそれが温故知新だと思うのです。

Google Scholarには「巨人の肩の上に立つ」と書いてあります。いい言葉だと思います。凡人の僕にとって文献を検索することは患者さんに誠心誠意でいるために必要なことなのです。

なかなか、更新できないけれど。

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